知らず識らずのうちに

「手づくり市」というのか、主にクラフトな分野の創り手の方が自作を販売するブースが立ち並ぶようなイベント。90年代の初め頃は、全国に視野を広げても10ヶ所くらい…そんな感じでしたが、今や、毎週末どこかで同系のイベントが開催され、シーズンには同日開催だけで全国で「数百」という状態にあるようです。

誰もが参加できる。全ては出展者の「自覚」に委ねられる…それがこうしたイベントの、第一の魅力。でも、それだけに、広く市井の人々が「創り手」ということをどう捉え、「つくって売る」ことをどう考えているのかを端的に見通すことができる「鏡」のような催しでもあるわけです。
市販のキットを組み立てる。しかも、その組み立て方は「お教室」で習った…などという出展者の方もいらしゃる。「寸分違わず」コピーするとなると至難の技…その技を磨くとなると「楽しい」の範疇では不可能で、多くの場合「だいたい」なコピーで、しかも、その「鈍っちゃった」部分を「個性」と拡大解釈してしまっている。だいたいにおいて買い手に優しくない創り手側の主張のみが繰り返される売り場…

ああ、この人はステキだなと思う出展者の方は、多くて全体の5%程度でしょう。それで生成りなのだと思います。

お財布の紐が緩くて、みなが一様に経験に乏しく情報もあまり持っていない…そういう時代には「多くて全体の5%程度」でも、こういうイベントが成立したんでしょうが、これからは難しいでしょう。財布の紐は固くて、それなりに経験も積み、情報にアクセスするのも容易な時代になったからです。

一箱古本市などでも出展者の審美眼やセレクト力が厳しく問われるようになるでしょう。

厳しいようですが、これが「市」というものの正常なあり方なんでしょう。うちのひいばあちゃんは、敗戦直後の闇市でもそういう意味で各出展者はしのぎを削っており、お互いに一目置く者どうしが、やがては仲間になっていったと言っていました。

高度成長期からバブル経済な時期を経て、僕らは知らず識らずのうちにぬるま湯に首まで浸かって、何かを見失っていたのかもしれません。

考えてみれば、自然というのは競争なんでしょう。それがオーガニックなんだと思います。
産業を成立させるための部品に組み込まれるならともかく、自由なら、それなりに争っていなければならない…

きっと野辺の花たちもそうです。

街が表現してくれる

「写真」という手法で何かを表現してたいというより、「街」が表現してくれているものを写真で記録したいんでしょうね。その表現は一瞬で消えて生きますからね。
ときどき、シャッターを押しただけでは「写らない」と思うことがあって、撮った後の写真を加工することもありますが、それも「見たまま」にできるだけ忠実にありたいと思うから。ちょっと変な言い方ですけれど…

だから、シャッターを押さずにただ眺めていることもありますし、撮った後に加工しても「これは無理だ」と思うときは、あらかじめ写真にするのを諦めて、ただただ、その時間を体験しています。

街は雄弁です。表情も豊か。特に普段着の街は…

僕は街が好きです

個人店が生き残っているのは、ごく一部で、全国津々浦々、どこへ行っても全国区のフランチャイズ・チェーンやコンビニばっかり。それも地方へ行けば行くほど選択肢が少なくなる感じ…「ファスト風土」という警告も馬耳東風。今も、このファスト風土は加速度的に増殖していっています。

今や「街が何を失ったか」は誰の目に鮮やかに手に取るように判ります。

そして

「街」だけでなく 僕らも何かを失いました。

行政が規制をかけているわけでもないのに全国津々浦々で「同じような結果」が出る。個人店が提供できるコーヒーの値段に消費者が支払える金額が追いつかないんだから仕方がないという人もいます。もとより「モダニスムとはそういうことだよ」という人もいます。

でも、なんだか、やっぱり切ないな。 …だから

 全国区のフランチャイズ・チェーンにも見放されたような商店街に、若者がお店を開いてくれる。
有り難いと思っています。
彼らを応援することができるくらいには働いていきましょう。僕は「街」が好きです。

「時間」は売れる

例えば、古本屋さんだって、ユーズドの書籍を仕入れて売っているわけですから、「つくって売る」ではないし、むしろ、かつての「小売り」っぽい業態です。
でも、その古本屋さんが、たんに古書を販売しているのではなく、お店という空間や店主さんの佇まいなどを含めて、その書店に流れる「時間」を売っているのだとしたら、それは「『売る』専門の『小売り』はいなくなる」の範疇には入らないのだと思います。

かつての「名物マスターのいる喫茶店」みたいに、そこに居る時間を楽しむために珈琲代を支払う…コーヒーの「美味しい」は付加価値…みたいな。

今はまだ、かつての喫茶店ほど「そこに居る時間を楽しむ」を収入につなげるための料金形態や料金体系が整備されていないのかもしれませんが、時間の問題だと思います。すでにニーズは顕在化しはじめていて、もうすぐ「居心地の提供」で食っている古本屋さんが現れるのはずです。
独居しつつ、お亡くなりになったお母様の遺品を整理していたら、未使用の下着がたくさん出てきて、息子さんは、そうした下着が「近所の旧い婦人服屋さんで時間を過ごすための入場料」だったんだなということを悟ったそうです。
旧来に当てはめれば「小売り」だが、その実、提供しているのは「そこで過ごす時間」という、質的には新しい業態のお店の存在が、そのうちはっきりとしてきます。

そして、こうした商いについてはショッピング・モールなどの「システマチック」は、全くの苦手でしょう。「時間は売れる」は「街角で」だと思います。

「売る」専門の「小売り」はいなくなる

これから襲ってくるだろう経済的な「災禍」が終わって、ようやく世の中が落ち着いた頃には、小売りといってもユニクロさんみたいなメガな会社だけが生き残って、中小・零細から個人企業に到るまで「小売り」は絶滅しちゃうのかもしれません。
ちょっとでも「量産」、つまり工場生産なレベルになるとユニクロさんみたいな企業の範疇になり、その一方で街かどには「つくって売る」個人のスタジオみたいなものがある感じ。つくる人と買う人の間に入る「小売利」はいなくなる。安くしなければ売れないから「中間」を省いて「つくる人」が売るし「買う人」も、コーディネートをはじめ、以前に比較すればかなりの知識を持ているからアドバイスの必要もないし、見本は雑誌やSNSに溢れている…

自然な流れでもあると思うんです。すでに始まってもいます。

シャッター通りな商店街の片隅で、土曜日だけ、ケーキや焼き菓子を売る女性がいる。生中ではない「味」。ちゃんとクラフトワークで勝負しているし、たぶんバイトで保たせている製造小売な店には出せない味…ココナツの使い方が絶妙。パッケージ・デザインなどのCIも上手いし、かといって無駄なところにはお金をかけていない。食品衛生法的な法令もきちんと遵守。プロフェッショナルです。主婦の片手わざではありません。
こういう感じになると「組織による量産」はどんなに頑張っても「負け」です。勝とうと思ったら「組織による量産」をやめなければならない…だから、こういう個人のクラフトワークが「自分で売る」は絶対に生き残ります。量産ばっかりじゃぁ、生活が荒びますからね。

同じように街かどで若者が起業した小さなお店でも、クラフトワークよりビジネスが勝っちゃってるお店もある。彼らは愛想はいいけど、どこかで押し付けがましく、そして値ごろ感がない。お店も今様にスタイリッシュ…。仕入れものが多くて、サンドイッチがあればパンが不味い…インスタグラムでの発信に熱心…とか。
それから会社などでの人間関係が苦手で、だからcafeなどを始めちゃった人もいる。そういうお店は、お店に入っても店主さんの雰囲気が刺さるようでね。居たたまれなくなっちゃう…

今は玉石混合。…でも確実に始まっている。

不器用でも、味だけで評価されて閉店時間には、ほとんど売り切れていて…でも、土曜日しか営業しない。そういう、お店あるんです。
街かどには、小さな個人のクラフト・ワークなお店。まるで公的なインフラのようなメガな実用衣料品の生産販売を一括して展開する会社。そして「売る」専門の「小売り」はいなくなる。
でも商店街によっては新しい活気を呼び戻すところも出てくるように思います。退職後に好きが高じて始めたJAZZ喫茶、同じようなブックカフェ。そういう「自分も楽しいし、喜んでもらえれば」なんてお店も含めてね。僕はけっこう楽しくなるのかなって期待しています。

空間性より場所性

「私は7歳の時からカーリングを始めました。正直この町 何もないよね(笑)この町にいても絶対“夢はかなわない”って思ってました。だけど今は、ここ(常呂町)にいなかったら(夢は)かなわなかったなって思ってます。子どもたちもたくさんいろんな夢があると思うけど、場所とか関係なくて、大切な仲間がいたり家族がいたり、どうしてもかなえたい夢があるとか、この町でもかなえられると思います。これからもよろしくお願いします」

カーリング女子 日本代表 吉田知那美選手

つまり、空間性より場所性だっていうことですよね。
そして、ヨコハマは、特に80年代以降、空間を肥大化させ、場所性を劣化させてきたと…

「よそ者」のための物語

例えば野毛に、都橋商店街のビルに、今も息づく闇市から戦後の混乱期までのノスタルジックな風情を求める…
でも、あの時代を、あの場所で切り抜けてきたはずの ひいばあちゃんには あのあたりもただのシノギの場所で、彼女からサウダージな話は聞いたことがありません。
僕にしても、野毛あたりは、高校生の頃、学校をサボってJAZZを聞いていた街だし、その後も「呑む場所」ではあっても「闇市から戦後の混乱期までのノスタルジックな風情」を求めて行くところではなく、そんな風情を漂わせていた店も知りません。都橋商店街のビルは当時の露天商をまとめたビルだそうだけれど、「闇市云々」とは関係なく靴屋さんは、ただただ靴屋さんだったと記憶しています。

福富町あたりも空襲にやられるまでは職人さんと芸人さんの街で、ひいばあちゃんに鮮明なのはそのあたりの記憶。「ノスタルジックな風情」ではなく「ピンピンした日常」が息づく街としての記憶で、そこに影がさす感じもありませんでした。

闇市のイメージで語られる野毛や都橋商店街のビルあたりは、誰のためのものなのかな。少なくとも、あの街に暮らしてきた人たちの者じゃないんだろうな。つまり「リアル」じゃない「フィクション」。それが悪いとはいわないけれど、だから、あのあたりに行って「闇市から戦後の混乱期までのノスタルジックな風情、そのリアル」を探すべきではないんでしょう。

僕と奥さんもヨコハマの名だたる歓楽街に10年以上を暮らした経験があって、隣の洗濯屋のおじさんは「血」染みをキレイに落とすのが自慢で、その洗濯屋さんには、やたらとミニなセーラー服や赤い縄が並んでいて、近所の薬屋さんは消毒液の品数豊富なのがウリで、非常線が張られて「我が家」に帰れなかったことはあるし、しばしば刑事さんが聞き込みに来たけれど、直接的に怖い思いをしたことはなく、上からブラジル人同士の乱闘を見物することはあったけど、まぁ、フツウに暮らしていて…

つまり、外から見れば、語り草になるような「ディープな街」にも、フツウの「日常」が流れている。ただ、それだけのことなんだと思います(そうでなければ10年も暮らせませんよね)。

ある部分だけをピックアップして書いてしまうと、そうやって「ピックアップされた部分」が全てのように思えてしまう。でも「警視庁24時」みたいなTV番組を撮ってるすぐ横で、実際には、うちの鈍臭い奥さんが、しゃがんで路肩の花を撮っていたりして、その花はフツウに可愛かったりする…それがリアルです。

僕らは、襲われもせず、あの街でフツウに暮らして10年以上を過ごした。

たぶん、番組にも、本にもならないんですけどね。でも、生活ってそんなもんです。
逆に言えば、何かのテーマで括って視覚を選んだ時点で、すでにフィクションは始まっていて「リアル」からは遠ざかりはじめているんでしょう。本だってTV番組だって尺に限りはあるんだから編集しなければなりませんし…

そして、そのフィクションは、そこで暮らす者のためではなく「よそ者」のための物語なんだろうな。
その街で暮らしている人にとっては、そこに「日常」があるだけですからね。

旅人

都市、特に大都市においては、仮に定住的に暮らしていても、ずっと旅人のような気分でいた方がよいのでしょう。いつも「よそ者」で、だから遊歩者のような視点を持つ。孤独についても、それを愉しめる方がよい…そんな感じ。

都会の村方

あらためて見ると、どこもここも古い。七〇年代の匂いが残る。フォークブームの頃の雰囲気がまだ生きている。足が鉄で腰掛けが木の、特別あつらえっぽいカウンター椅子は、すっかり角が丸くなり、つやを帯びている。床も壁も天井も、珈琲やウイスキーや煙草の香りがたっぷり染み込んでいる。テービル席の椅子はレンガを積んで、茶色いビニールのクッションを敷いたもので、これも相当年季が入っている。「中央線文化」という言い方はあまり好きじゃないが、この店の中の雰囲気こそボクの知る昔のそういう店の典型だ。苦笑いするような気持ちで、ボクはそれをあらためて味わった。

(中略)

ボクは高校生の時、背伸びして友だちと行った。入る時、怖かったけど、長髪髭の店員にやさしくしてもらった。

(中略)

でも「ほら貝」も「ほんやら洞」も、吉祥寺にあった「ぐゎらん堂」も、ボク自身はあまり馴染めなかった。なんだか田舎の大人たちが東京に出てきて、村を作ってジャレ合ってる感じがした。しかも都内はコワいから三多摩辺りで。
ウカウカしていると「一員」にされそうだ。「ルール」がめんどくさそう。だからそういう店にも誘われて行ったけど、いつも常連さんたちとは距離を置いていた。それはボク個人の性質なのか、三多摩人の性分なのか。

久住昌之 著 「東京都三多摩人」より

「三多摩」とは東京都から23区と島嶼部を除いた地域の総称。東京の人以外はあまり使わないのではないかと久住さんはおっしゃいます。そして、久住さんは三鷹生まれの三鷹育ちの方。その彼をしての「中央線文化」への違和感が「田舎の大人たちが東京に出てきて、村を作ってジャレ合ってる感じ」なんだと思います。

1960年代の末、全国の「団塊の世代」の多くが進学か、就職で東京に集中しました。

(1965年の中卒者=団塊の世代、鹿児島県では82.6%、島根県では71.8%、秋田県では56.1%が県外に「就職」で流出。同様に1968年の高卒者の、鹿児島県では68.8%、島根県では66.9%、秋田県では45.8%が県外に「就職」で流出しています。=文科省「学校基本調査」より)

そして、70年安保後、大学生たちの多くが当局の規制を嫌う面もあって、都心を離れ高円寺(杉並区)や吉祥寺(武蔵野市)、国分寺(国分寺市)や、福生、下北沢などに移り住んで、彼らなりの生活文化を構築していった…というのが、久住さん曰くの「中央線文化」です。当時の大学進学率はまだ15%前後(現在は57%前後)、NHKの連続テレビ小説「ひよっこ」でも、そんな感じに描かれていましたが、大学生の生活文化は同世代の垂涎の的。団塊の世代というボリュームゾーンにエコーして、多くの映画やテレビドラマなどにもなりこの「中央線文化」が、ひとつの「東京イメージ」を形づくっていきます。
でも、彼らの多くは地方からやってきた「よそ者」であり、村方の人々です。だからコミュニティに安住する性質を持ち「ルールがめんどくさそう」で壁を立てる。久住さんのような根っからの都市人にはホントに違和感があったんだと思います(反発心とか抵抗感があるというより…)。
誰が村人であり、誰が村人ではないのかをはっきりさせたがるのは「村方」の特性です。田畑の権利と、田植えなどの共同作業を頼める者として「村人」をはっきりする必要があったし、世代を超えて継承される田畑という不動産が「村」の基盤でもあったからです。田畑があれば自給自足も可能ですから、壁を立て「外」と距離を取っても籠城が効きました。ところが住民の流動性が激しく、主幹産業の転換が激しい都市(とくに大都市)、しかも自給自足が効かない都市において、それをやってしまうと、周囲から孤立して一気に死活問題です。故に同様のコミュニティ同士の抗争にも発展しやすい…学生運動の末期もそんな感じだったのではないでしょうか。

団塊の世代は家族を持ってニュー・ファミリーになり、さらに郊外に散って、都心周辺に新興の住宅地を出現させました。もうすぐ後期高齢者の彼らは、すでに故郷で過ごした時間よりも長い時間を東京近郊で過ごしているでしょう。でもコミュニティな体質に変化はないかな。故に息子さんや娘さんも都市に生れながら、コミュニティな村方志向でしょう。

核家族が孤立し、高齢者が孤立し、若者が孤立する所以です。

空間に思い入れを

大都市に生まれ育ってきた人間は、空間に思い入れを持つべきではないんだろうなと考えています。だって、震災や戦災やビジネスな再開発で、空間はあっけなく変貌を遂げるから。
せめて「店舗ほどの空間は」と思いますが、十代の後半から、かれこれ四〇年は通い続けている自由が丘。あの頃からあるお店…片手で充分に数えられる程度…ですもんね。